On the Road

スピリチュアル妄想録
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第五章 日本近代文学の奇跡
漱石は、英語や英国がきらいだったらしい。また、執筆の合間に漢詩を作って精神の均衡を保っていた。彼の文明評も紹介されているが面白い。読んでみたい。

第六章 インターネット時代の英語と「国語」
・文学の終わりを憂える背景。
①科学の急速な進歩:人間とは何かという根源的問いに答えるのに、小説を読むよりDNAなどの最新の科学の発見を知ることのほうが意味がある。②文化商品の多様化:CD、DVD、youtube、映画、連ドラ
③大量消費社会の実現:文学価値よりも流通価値。マリアカラスの歌もマドンナの歌も同じ値段で手に入る。

・グーグルなどがすすめる大図書館。シュメールの粘土板から現在までの全ての史料は、完璧にデジタル化すれば50ぺタバイト(ペタバイトは2の50乗)に圧縮できる。

・英語の図書館だけが巨大化。

・アメリカの大学の他を圧倒する突出ぶり。インターネットの発達によりこのような一極集中とは反対の動きが強まるが、各地で英語の教育が行われるようになる。(日本の大学院でも授業は英語化)

・自然科学は既に英語に一極化されているが社会科学、人文科学にも広がり始めている。

・英語が普遍語となったのが目に見える形となる前から、日本の文学は内側から一人で幼稚なものとなっていった。英知を求める人であればあるほど日本語で書かれた文学だけは読まなくなってきている。現在の日本文学は昔で言えば女子どものものであり、かつては日本文学が高みに達したことがあったのを忘れさせるもの。

・近代に入り、日本語は西洋語からの翻訳が可能な言葉に変化していく必然性があった。ところが西洋語はそのような変化を遂げる必然性はなかった。西洋語に訳された日本文学を読んでいてそのよしあしが分かることなどほとんど有り得ない。分かるのはあらすじの妙であり、あらすじの妙は文学を文学足らしめる要素の一つでしかない。漱石の文章が上手く西洋語に訳されない事実一つでそれは示されている。
→同感。世界でも有数の文学の質と量を誇る日本文学を日本語で味わえることがいかに贅沢なことか。あと、グレングールドは漱石の草枕が大好きだったらしい。


第七章 英語教育と日本語教育
・国策として少数の選ばれた人=優れたバイリンガルを育てるしかない。

・河合はやおの「日本語を大事にするから外国語を学ばない、日本文化が大切だから外国文化を退けるというのはゼロサム的な誤り。」というのは、もっともだが、プラスサムの結果を引き出すのは容易ではない。

・日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきである。日本語を実に粗末に扱ってきた。

・書き言葉は話し言葉の音を書き表したものという言語観(表音主義)は誤り。言文一致体は、指示機能を優先させた西洋語からの翻訳が可能な書き言葉であり、話し言葉とは違う。

・福田恒存の「私の国語教室」が出るまで、幹事を排除する表音主義が大きな勢力となっていた。韓国も北朝鮮も漢字をほとんど捨てた。いわば仮名文字論者の立場をとった。ベトナム人はローマ字に変えた。

・漢字を残したことの代償として、表音主義者は、伝統的仮名遣いを表音式仮名遣いに改めた。「私の国語教室」にはいかに表意式仮名遣いが語意識への感覚を鈍らせてしまったかが書いてある。

・表音主義を中心にすえた戦後教育は、話し言葉と書き言葉を同じものにすれば誰でも文章を書けるようになる。という「善意」から生まれたもの。だが文化とはそういうものではない。国民全体を各主体にすることが教育の理想ではなく、読まれるべき言葉を読む国民を育てることを目標と設定すべきだった。読まれるべき言葉を読み次ぐのを教えないことは、究極的には文化の否定というイデオロギーにつながる。中国の文化大革命、カンボジアの読書人虐殺。

・日本語は表記法を使い分けることが意味にも関わる。荻原作太郎のフランスに行きたいという詩も、口語体にすればJRの広告以下。

・日本人は文化は何もしなくても維持されると思っている。そう思っているうちに、建築に関する基準が安全基準以外にないまま、ばらばらな高さ、色、形をしたビルと安普請のマンション、理不尽に交差する高架線、人が通らない歩道橋などの醜い空間ができあがった。
→全くの同感。

・日本の国語教育は近代文学を読み次がせることに主眼を置くべき。
1つに、それが出版後が確立されたときの文章だから。そうした規範性の持った出版語があれば話し言葉も安定する。
二つに、漱石が言う曲折から生まれた文学だから。西洋の衝撃を受けた日本の現実についてかたるために日本語の古層を掘り返し、日本語がもつあらゆる可能性を探りながら花開いてきた。日本語が日本近代文学を読む習慣がつけば近代以前の日本語にも通じる。
3つ目に、近代文学が生まれたときは、日本語が四方の気運を一気に集め、もっとも気概もあれば才能もある人たちが文学を書いていたときだから。この先日本が20世紀に持ったほどの世界的な意味を持つことは二度と有り得ない。

・かくも面白く、かくも高みに達した日本語を現地語になりさげることは人類の文化そのものが貧しくなってしまうこと。
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