On the Road

スピリチュアル妄想録
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昭和囲碁風雲緑〈下〉昭和囲碁風雲緑〈下〉
(2003/06/20)
中山 典之

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上巻に引き続き。

・昭和三十五年、秀行理事による名人戦創設への奔走。結局読売へ

・坂田の全盛期。川端康成他文壇との付き合い。レベルの低い文士との遊び。 近啓「馬鹿な神様」

・坂田のタイトル戦17連勝。

・昭和49年、読売と朝日の名人戦主催争い。

・趙治勲は年末になると温泉に出かけ、その年の後をならべ直し研究する習慣。昭和61年、深夜ラーメンを食べようと出かけようとした趙のそばでオートバイが転倒。助けようとした時に、後方から走ってきた車にはねられ全治3カ月の重症。棋聖戦を3日後にひかえ、脳に影響が生じないように、下半身だけの麻酔で痛みに耐えた大手術。岸の体は精密機械。その後しばらく趙は不振に。

・十段位をとって盤上で涙した小林光一。筆者はその場の空気にいたたまれなくなって場を離れたら、エレベーターの後ろに趙の姿。趙は筆者に気付かず無言で通り過ぎたが、その表情には満面の笑み。見たことのもないうれしい顔をしていた。あまり仲良しそうではない小林と趙だが男の友情はそのようなもの。

・道策や丈和、秀策などには今の棋士でも最新の定石を知っているだけ少しは歯がたつが、10番も戦えば向こうもそれを覚え歯が立たなくなる。小林光一ですらヨセで道策に10目必要。


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最後の将軍―徳川慶喜 (文春文庫)最後の将軍―徳川慶喜 (文春文庫)
(1997/07)
司馬 遼太郎

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非常に楽しめた。
個人的な関心としては、幕末の政局、特に当時の京都を中心としたポリティクス、すなわち天皇というシンボルの操作、天皇と幕府の関係という建前・名目論の活用、テロ、情報・諜報、尊王攘夷などのキャッチーなフレーズによる世論への働きかけと動員、当時の各種会議の意義・正当性、各種キープレイヤーの思惑等の権力政治が、現代的な意義も持っており非常におもしろいと思っている。

それで、特に各種会議における彼の役割や彼の政治的振る舞いに興味があり、まずは司馬遼太郎の本をということでこの本を読んだ。子供の時から、慶喜という人は明治維新の一番の功労者ではないか、と単純な理解を持っていたのだが、この単純な理解は、結論としてはまああながち間違っていないような気はする。慶喜の様な尊王思想を持っており、徳川家に対する強い結び付けを感じない(おそらく将軍という意識もあまりなかったのではないか。)人だったからこそ大政奉還ということアクロバティックな方策をとることができた。

司馬遼太郎もあとがきで認めるように、政治家を小説にするのは非常に難しいが、その複雑さをそのまま描いており、なんとも言い難い味のある小説になっていると思う。その味は慶喜という複雑な個性がもたらしたものでもあろう。

これまで読んだ司馬作品というのは対して多くないが―特に長編は「坂の上の雲」「花神」など途中で挫折することが多いが―個人的には「燃えよ剣」「新撰組血風録」にならんで好きな作品。どれも薩長の立場ではないことに特徴あり。



・楠木正成を忠臣として発掘した水戸学。紀州・尾張は徳川の主筋という実感はあるが、水戸はその尊王思想と家康以来の血の薄さで旗本からは疎外の念。

・井伊直弼は、先代の14男で、30半ばまで部屋住みの日陰の存在。この間他の大名や寺の養子にまでなろうとするが失敗。長兄の嫡子が死亡し、長兄の養子に。その兄がほどなく死に36で思いもかけず彦根35万石藩主に。その井伊が突然幕府の大老に。

・井伊は大老就任後3カ月目に日米条約を勅許なしで調印。慶喜にとっては、元首は天皇であり、将軍は委任され代行しているだけ。その水戸学的法理論に基づくとおかしな行動。

・慶喜に対する世間の評判の独り歩き。救国の主との志士達の評判。安政の大獄後、周囲の暗躍で将軍後見職に。

・後見職としての慶喜は開国派。ただ表に出しすぎると尊王攘夷派ににらまれる。

・慶喜の芝居。役者ぶり。手続きのうまさ。最も手続きのみならず何事にも多芸。

・孝明帝の世界認識は、鬼の様な顔をしたペリーの顔絵のみ。このような汚らわしいものを神州にちかづけてはならぬとの単純な攘夷論。あくまで佐幕家で幕府に攘夷を期待。

・後見邸会議。久光、伊達ムネナリ、松平春嶽、容堂と。

・薩摩による朝廷の公家の買収。

・横浜鎖港の勅書に関し、中川宮邸で、酔った振りをして、久光、春嶽、ムネナリを面罵。

・家茂死後、徳川は継いでも将軍にはあくまで拒否。拒否しきれなくなり受け入れとの形をとる。

・イギリスなどは日本は天皇元首の国で幕府は委任されていると解釈。フランスは将軍を皇帝と解釈。慶喜もイギリス式の解釈をよく理解。家康ももともとは外様大名の君主ではなく盟主。その元々の地が現れ始めている。盟主は武力が強くなくてはならないのに、獏軍は戦争も弱くなっていた。

・形式に先例のない京都での宗家引き継ぎを、100年も役人をやっていたかのように手続きを家臣に申し渡し。

・将軍死後2十数日で孝明帝が死去。

・サトウの慶喜評「自分が見た日本人の中で最も貴族的風采。実に好紳士」

・会議における慶喜の弁舌の巧みさ。議論の強さ。将軍就任直後の兵庫開港問題。四賢候会議。その後の朝廷における夜通しぶっ続けの会議。20時間以上慶喜は論じ続け、一同開港論に屈服。桂小五郎は「慶喜の胆略は家康の再来を見るがごとき。」

・薩摩の謀略による倒幕の密勅の前の大政奉還。政権という厄介者を放り出して、何もできない朝廷を困らせる。旗本を集め、弁舌で有無を言わさず納得させる。弁舌によった旗本は異存なければよしと慶喜が退出した後騒然。その後も諸藩の代表と会見し、演説。諸藩の代表もひたすら平伏。大政奉還を起草した竜馬の反応「将軍今日の御心、さこそと察し奉る、よくも断じ給えるものかな、よくも断じ給えるものかな、予は誓ってこの公のために一命を捨てん」

・勅命をもって慶喜は江戸城に始めて追われる。天樟院にもそのいきさつを物語、天樟院は酔えるがごとく聞き入れる和宮も慶喜嫌いであったが、同情。

・明治2年、謹慎を説かれて徳川の新しい任地静岡に移った慶喜は33歳。62歳で明治天皇と皇后に面会。天皇は「恩返しをしたよ。天下をこちらが奪ったからな」と伊藤博文に。

・74歳で死ぬ。葬式で米国は日本の全元首に外務大臣を通じ大統領新書の形で哀悼。

・老後は知り合いと会うことをさけ、趣味の世界。明治の元勲の伝記をよく読む。特に尾彼を追い込んだ大久保の伝記をよく読み、当時は知らぬ先方の策略を知った。


・大仏次郎の「天皇の世紀」が文庫化。知らなかったが、非常におもしろそう。


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